RayMond Carver, What We Talk About When We Talk About Love

 

What We Talk About When We Talk About Love (Vintage Classics)

What We Talk About When We Talk About Love (Vintage Classics)

 

 

This powerful collection of stories, set in the mid-West among the lonely men and women who drink, fish and play cards to ease the passing of time, was the first by Raymond Carver to be published in the UK. With its spare, colloquial narration and razor-sharp sense of how people really communicate, the collection was to become one of the most influential literary works of the 1980s. 

 

しみじみと本を読むのは約一ヶ月ぶりになる。実は昨日からインフルエンザに罹ってしまい、他にすることもないのでせっせと棚に積まれた本の切り崩しにかかっているというわけだ。本書は現代アメリカ文学の代表的作家といわれるレイモンド・カーヴァーによる短編集だが、英語で書かれているということで中々食指が動かなかったというのが正直な所である。というのは、本作に関しては村上春樹による翻訳本も出版されてはいるのだが、この手のミニマリズム小説は間違いなく原文で読んだ方が良いと個人的に考えるためだ。ミニマリズムとは一種の芸術手法であり、日本語に訳せば「最小限主義」となる。ミニマリズム小説は装飾的な要素を一切廃し、描写を必要最低限に留めるため象徴的かつ抽象的な概念を含有しがちだ。そして、そこには原書で用いられる言語特有のニュアンスや暗示的要素といったものが確実に介在してくるわけだが、いかに優れた訳者といえども、こういった意味を正確に翻訳することは極めて難しい。しかしながら、表現という点に絞って見てみると、ミニマリズム小説は非常に簡潔で分かりやすい文章により叙述が為されるので、外国語で原書が書かれた作品も少々の語学力で楽しむことが出来る。もし英語が少しでも読めるのであれば、訳者により曲解されてしまった可能性のある叙述をそのまま受け取るよりも、自分の手で翻訳した叙述を自分の頭で解釈する方が良いだろう。なぜなら、とりわけこういった作品の翻訳に際して必要になってくる要素は、語学力よりもむしろ個人の感性であるからだ。以上のような理由から、ミニマリズム小説は原書で読むことが好ましいと考える。内容について、その意味するところの全てを自分が理解できたとは到底思わないが、本書は「愛とは何か」という普遍的なトピックについていくつかの答えを暗示するようなものであったと感じる。そして、その洗練された文章には言葉としての美しさが確かに存在し、ある点においては、その美しさは文学の最終到達点であるようにも、素人ながらに思った。

 

庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』

 

赤頭巾ちゃん気をつけて 改版 (中公文庫)

赤頭巾ちゃん気をつけて 改版 (中公文庫)

 

 

女の子にもマケズ、ゲバルトにもマケズ、男の子いかに生くべきか。東大入試を中止に追込んだ既成秩序の崩壊と大衆社会化の中で、さまよう若者を爽やかに描き、その文体とともに青春文学の新しい原点となった四部作第一巻。芥川賞受賞作。

 

本作は『赤頭巾ちゃん』から『白鳥の歌』、『怪傑黒頭巾』、『大好きな青髭』に続く庄司薫による薫くん四部作の第一作目だ。サリンジャーの『ライ麦』との類似点が多くみられ一部の人間からは盗作とまで評された本作だが、実際に読んでみるとこの二作品の間には大きく異なる点があることに気付くだろう。確かにホールデンも薫くんも知的なエリートでありながら成熟しきっていない心を持つという点でよく似ている。しかし、野村夏治 (1989) によれば、ホールデンは作品の中で「無垢」の象徴として描かれているのに対し、薫くんは「やさしさ」の象徴として描かれているのだという。このことは本作の最終章、薫くんが半ば自棄になりながら銀座を街を彷徨い歩く場面によく描かれている。そしてこの場面はペンシー高校を辞めたホールデンが三日間ニューヨークの街を放浪する『ライ麦』にも共通するところがあり、庄司薫サリンジャーに対する明白な意識が読んで取れる。

重松清『みんなのうた』

 

みんなのうた (角川文庫)

みんなのうた (角川文庫)

 

 

東大を目指して上京するも、3浪の末、夢破れて帰郷したレイコさん。傷心の彼女を迎えるのは、個性豊かな森原家の面々と、弟のタカツグが店長をつとめるカラオケボックス『ウッド・フィールズ』だった。このまま田舎のしがらみに搦めとられて言い訳ばかりの人生を過ごすのか―レイコさんのヘコんだ心を、ふるさとの四季はどんなふうに迎え、包み込んでくれるのか…。

 

田舎には良い面と悪い面がある。良い面としては、よく言われるように人情の暖かさや時間に追われることのない生活といったものが挙げられる。対して田舎の悪い面には、閉塞感や世間体が生み出す息苦しさ、そこに住む人々の無知や無学といったものがある。この作品はそういった田舎の二面性の中で、敗北感で傷ついたプライドを抱えながら葛藤する主人公のレイコさんを描いた物語だ。重松清は子供や少年・少女の未成熟な心を描き出すのがとても上手で、彼の作品に触れて「この主人公と同じ年の頃、自分も同じようなことを考えていたな」と想起することは多い。

谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』

 

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

 

 

「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」。入学早々、ぶっ飛んだ挨拶をかましてくれた涼宮ハルヒ。そんなSF小説じゃあるまいし…と誰でも思うよな。俺も思ったよ。だけどハルヒは心の底から真剣だったんだ。それに気づいたときには俺の日常は、もうすでに超常になっていた―。

 

2006年のアニメ化で一世を風靡した『涼宮ハルヒシリーズ』の第一作目。SFや哲学といった硬めのジャンルを、萌えという親しみやすい概念によって見事に中和してみせたライトノベル史に残る名作だ。本作の語り手であるキョンのウィットに富んだ独白やそれぞれが強烈な個性を放つ登場人物など、物語を構成する全ての要素が作品全体を面白くすることに一役買っている。そう、この作品は純粋に「面白い!」と言える物語なのだ。

フランツ・カフカ『変身』(高橋義孝 訳)

 

変身 (新潮文庫)

変身 (新潮文庫)

 

 

ある朝、気がかりな夢から目をさますと、自分が一匹の巨大な虫に変わっているのを発見する男グレーゴル・ザムザ。なぜ、こんな異常な事態になってしまったのか…。謎は究明されぬまま、ふだんと変わらない、ありふれた日常がすぎていく。事実のみを冷静につたえる、まるでレポートのような文体が読者に与えた衝撃は、様ざまな解釈を呼び起こした。海外文学最高傑作のひとつ。

 

朝起きると巨大な虫になっていた男の物語。世界的にとても有名で評価の高い作品だ。この作品に関しては難解な考察や解釈も多いけれど、ユーモラスでありながら物悲しさを感じさせるストーリーは純粋に物語として読んでも十分に魅力的ではないだろうか。しかし、グレーゴルが変身した巨大な虫が表象しているものは結局なんだったのだろう?なぜこの物語はああいった結末を迎えたのだろう?時代背景やカフカ自身の思想も汲み取ってそんなことを考えてみるのもまた楽しいかもしれない。

J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝 訳)

 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

 

 

インチキ野郎は大嫌い! おとなの儀礼的な処世術やまやかしに反発し、虚栄と悪の華に飾られた巨大な人工都市ニューヨークの街を、たったひとりでさまよいつづける16歳の少年の目に映じたものは何か? 病める高度文明社会への辛辣な批判を秘めて若い世代の共感を呼ぶ永遠のベストセラー。

 

言わずと知れた世界的名作で、個人的にも小説の中では最も好きな作品だ。この作品について思うことを全て書こうと思えばとても四行程度の文章では収まらない。以前紹介した三秋縋の『スターティング・オーヴァー』という作品の中で、主人公が『ライ麦畑でつかまえて』について持論を展開する場面がある。その主人公は「まともな神経をしていたら、ホールデン(『ライ麦』の主人公)のように常に腹が立っていて当然だ」と言うのだが、この意見にはとても深い共感を覚えた。一般にこの作品が「青春小説」とされていることからも分かるように、ホールデンの感じる世間への怒りや不満は若者特有の、成長の過程で乗り越えられるべきものであると大人たちは考えているようだ。そして、このことがまさにホールデンの嫌うインチキそのものであるように感じて、なんだか皮肉なものだなと思ってしまう。

 

ところで、この作品の原題は Catcher in the rye なので、そのまま日本語に訳すと「ライ麦畑の捕まえ手」となる。これを「ライ麦畑でつかまえて」と翻訳した野崎孝にはどんな意図があったのだろうか。私はこれを当初単なるユーモアやダジャレのようなものだと思っていたのだが、本作を三度目に読み終わった時だろうか、この奇妙な日本語訳に意味があることに気付いた。「気付いた」と言ってしまうと、まるで私が発見したことのように聞こえてしまうかもしれないが、これは文学を少し学んでいる人の間では定説となっているようだ。ではその意味とは一体何なのか?それについては、こちらのブログのエントリに詳しい。

 

zakkanberg.com

 

確かにホールデンのように精神的に未熟な頃、自分の弱さを認めたくないがゆえ、また自分の恥を大っぴらにしたくないがゆえ、わざと主体と客体を入れ替えたようにものを言うことが自分にもあった。どういうことかというと、本当は誰かに好きになってもらいたかったのに「誰かを好きになりたい」と言ってみたり、本当は自分が助けて欲しかったのに「あいつのことを助けてやりたい」なんて言ってしまうことが私も中学生くらいの頃によくあったのだ。昔を振り返って、同じような経験をしたと感じる人は決して少なくはないのではないだろうか。

 

訳について、野崎孝の他に村上春樹もこの作品の翻訳を出版しているが、読みやすくてメジャーなのは野崎訳だろうか。原書は英語で書かれているが、一部の俗語を除けば高校生レベルの知識で読めるものなので、気に入った方はぜひ生の文章を味わってみると良いだろう。個人的にはホールデンと同じくらいの年齢の人、つまり今の高校生達に是非読んで欲しいと思う作品だけれど、一方で若い時にあまりこの手の本に感化されるべきではないのかもしれないとも思う。なぜならホールデンのような視点で世界を捉え始めると、人生は途端に生きにくいものになってしまうような気がするからだ。その視点が正しいかどうかは全くの別問題として。

川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』

 

すべて真夜中の恋人たち (講談社文庫)
 

 

孤独な魂がふれあったとき、切なさが生まれた。その哀しみはやがて、かけがえのない光となる。芥川賞作家が描く、人生にちりばめられた、儚いけれどそれだけがあれば生きていける光。『ヘヴン』の衝撃から二年。恋愛の究極を投げかける、著者渾身の長編小説。

 

少し前に『校閲ガール』というドラマが流行ったけれど、この作品も校閲を勤める女性が主人公の物語だ。こちらの主人公は石原さとみのような快活で明るい人間とはおおよそ対極に位置する人物ではあるけれど。特に大きな起承転結が無く主人公の独白が続く作品なので、読んでいて少し退屈に感じる読者もいるかもしれない。しかし、個人的には主人公の繊細で内省的な性格をシンパシーをもって読み進めることが出来た。