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J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝 訳)

 

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

 

 

インチキ野郎は大嫌い! おとなの儀礼的な処世術やまやかしに反発し、虚栄と悪の華に飾られた巨大な人工都市ニューヨークの街を、たったひとりでさまよいつづける16歳の少年の目に映じたものは何か? 病める高度文明社会への辛辣な批判を秘めて若い世代の共感を呼ぶ永遠のベストセラー。

 

言わずと知れた世界的名作で、個人的にも小説の中では最も好きな作品だ。この作品について思うことを全て書こうと思えばとても四行程度の文章では収まらない。以前紹介した三秋縋の『スターティング・オーヴァー』という作品の中で、主人公が『ライ麦畑でつかまえて』について持論を展開する場面がある。その主人公は「まともな神経をしていたら、ホールデン(『ライ麦』の主人公)のように常に腹が立っていて当然だ」と言うのだが、この意見にはとても深い共感を覚えた。一般にこの作品が「青春小説」とされていることからも分かるように、ホールデンの感じる世間への怒りや不満は若者特有の、成長の過程で乗り越えられるべきものであると大人たちは考えているようだ。そして、このことがまさにホールデンの嫌うインチキそのものであるように感じて、なんだか皮肉なものだなと思ってしまう。

 

ところで、この作品の原題は Catcher in the rye なので、そのまま日本語に訳すと「ライ麦畑の捕まえ手」となる。これを「ライ麦畑でつかまえて」と翻訳した野崎孝にはどんな意図があったのだろうか。私はこれを当初単なるユーモアやダジャレのようなものだと思っていたのだが、本作を三度目に読み終わった時だろうか、この奇妙な日本語訳に意味があることに気付いた。「気付いた」と言ってしまうと、まるで私が発見したことのように聞こえてしまうかもしれないが、これは文学を少し学んでいる人の間では定説となっているようだ。ではその意味とは一体何なのか?それについては、こちらのブログのエントリに詳しい。

 

zakkanberg.com

 

確かにホールデンのように精神的に未熟な頃、自分の弱さを認めたくないがゆえ、また自分の恥を大っぴらにしたくないがゆえ、わざと主体と客体を入れ替えたようにものを言うことが自分にもあった。どういうことかというと、本当は誰かに好きになってもらいたかったのに「誰かを好きになりたい」と言ってみたり、本当は自分が助けて欲しかったのに「あいつのことを助けてやりたい」なんて言ってしまうことが私も中学生くらいの頃によくあったのだ。昔を振り返って、同じような経験をしたと感じる人は決して少なくはないのではないだろうか。

 

訳について、野崎孝の他に村上春樹もこの作品の翻訳を出版しているが、読みやすくてメジャーなのは野崎訳だろうか。原書は英語で書かれているが、一部の俗語を除けば高校生レベルの知識で読めるものなので、気に入った方はぜひ生の文章を味わってみると良いだろう。個人的にはホールデンと同じくらいの年齢の人、つまり今の高校生達に是非読んで欲しいと思う作品だけれど、一方で若い時にあまりこの手の本に感化されるべきではないのかもしれないとも思う。なぜならホールデンのような視点で世界を捉え始めると、人生は途端に生きにくいものになってしまうような気がするからだ。その視点が正しいかどうかは全くの別問題として。